バーでの作法
皇居を走り、汗を流してからバーに出かけた。4月中旬の夜の街はいつもと雰囲気が違う。居酒屋から出てきて2次会の場所確保を待っていると思しき若い大人数のグループが道をふさいで通れない。酔いつぶれて介抱されている人も。新入社員の同期会か。
仕事場でまだ自分が受け入れてもらえていない疎外感や孤独、不安を打ち消すために弱いもので群れる。それは仕方のないことだ。自分も通った道なので目くじら立てようとも思わない。
そんな街の光景を眺めながら初めてのバーに入った。声のボリュームのコントロールを忘れてウイスキーのうんちくを熱く語る若い二人連れがいた。静かに味わって飲みたいと思っていたのだが、行きつけの店でもないのでおとなしく飲む。
二杯ほど飲む間に、私の隣にいた外国人カップルが次にどの店に行くべきか相談していた。女性はどうやら日本語を学んだことがあるらしく、片言の日本語で懸命にお店の方とコミュニケーションを取ろうとしていた。口を挟もうか少し悩んだがジャパニーズウイスキーが好きで白州蒸留所にて3日過ごした、と言っているほどだったので「すぐ近くにWhisky Risingにも紹介されているイチローズモルトがたくさん置いてあるバーがあるよ」とおすすめしたら喜んでいた。Whisky Risingというのはベルギーとスコットランドで育った著者によって書かれた、日本のウイスキーやバーをさまざま紹介している本。邦訳も出ている。
すると奥の二人が「あそこのオーナーバーテンダーは英語しゃべれないんじゃないの?」と言っているのが聞こえる。そしてイチローズモルトが充実している別の店のマスターの名前を出して、「××さんの店の名前何だったっけ?そっちの方がよくない?」と今飲んでいる店のバーテンダーに聞いている。
自分たちの発した言葉が様々な方面に対して持つ意味を彼らが理解できているとはとても思えなかった。悪気はないのは分かるが、想像力に欠ける。残念な気持ちをオールドのグレンリヴェットとともに飲み干し店を出た。
グレンリヴェットは昔サイレンスバーで飲んだものを期待して注文したのだが、東南アジアの免税店向けリッターボトルの保存状態があまりよくなかったせいかそこに感動はなかった。店での出来事とは全く無関係だが。
やはりホームグラウンドのバーで飲む方が様々な意味で気持ちよく飲める可能性が高いのは間違いない。
そんな目にあったので、ふと昔のバーでの作法というのはどうだったのだろう、と気になり、本棚にある池波正太郎の「男の作法」という本を引っ張り出した。もう40年近く前に書かれた本。時代遅れになってしまっているところもあるが、「高い腕時計しているのに安いボールペン使うとかはバランス悪いから、時計の前にいい筆記具を買いなさい」、「鮨屋では通ぶる客が一番軽くみられる、職人の符丁のあがりとかガリとか言わず、お茶、しょうがと言え」などと書かれてあって今読んでもなるほどな、と思うことが多い。手元にある文庫本は平成23年の83刷。ロングセラーなのは今でも通用することが書かれているからなのだろう。
ちなみに池波正太郎は「鬼平犯科帳」などの著者、時代小説の大家で食通としても名が高く、当時人生経験豊富なダンディーなおじさんの一人とされていた。今の人で喩えるのは難しいが、ビートたけしが「昔の芸人はこういう感じで粋な人が多かった」と話すようなものか。
彼の述べるバーでの作法について簡単にまとめると以下のようになる。
食事の前にバーに立ち寄って、ギムレットやマティーニ、マンハッタンなどのスタンダードなカクテルを2杯ぐらい飲んでから出かけ、食後にまた同じ店に帰ってきてブランデーなど飲むのが男らしくていい
バーの醍醐味はちゃんとした店で見つけた自分が好きなバーテンダーと仲良くなること
つまらない店にいろいろ行くぐらいなら、そのお金を貯めておいていい店にたまに行くほうがいい
いい店のバーテンダーからは気の配り方など客が学べることが多くある
格のある店のちゃんとしたバーマンと仲良くなる、というのは口で言うほど簡単ではない。客としてどういう振る舞いをすべきか、してはいけないかの常識がそもそもないといけなくて、そうでなければ仲良くなれない。どう振舞えばいいは本を読んで覚える類のものではない。
この本には初めて行く敷居の高い食べ物屋でどう振舞うべきなのか、混んできた店で長居することがどんなにかっこ悪いのかなど、飲みに行ったときにも役立つことがたくさん書かれている。
最高のハイボールやショートカクテルを飲みたいと思うのであれば、細部にまで注意を払って最高の状態で仕上げられた一杯が目の前におかれたらしっかり味わいつつも時間のたたないうちにさっと飲むべきで、携帯いじったり話に興じている場合ではない。それはお酒だろうが鮨だろうが天ぷらだろうが変わりない。昔は注意してくれたお店の人もいたのだと思うが、今はそんな人は減ってしまった。その代わり、単純に次の一杯が最高の仕上がりのものでなくなる(可能性が高まる)だけだ。自分が作り手の立場だったらベストのものを作ったのにそれが時間がたっても口にしてもらえない状況でどう思うか、次の一杯にも自分のベストを尽くそうと思うか、想像してみればわかるだろう。
注意してくれる店の人がいれば、むしろそれは感謝した方がいいかもしれない。注意されなければ一生気が付かずにいろんな店で同じ間違いを犯し続け、同じ金を払ってもちゃんとした人よりもレベルの低いサービスしか常に提供されないかもしれないのだから。
そう考えれば、格のあるバーで客として認められるための作法というのは究極的には「バーマンの、あるいは店の他の客の立場になって考えてみたらどうだろう?」と想像力を巡らせられるかどうかの一点に尽きるのではないか。
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