1971年蒸留のKnockandoと「マチネの終わりに」
先月の終わりにまた一つ歳を重ねた。誕生日おめでとう、と言われても正直めでたいのかよくわからない。あと数年で50になるけれど、「50歳のおじさん」のイメージと今の自分というのがどうもきれいに重ならなくて気持ちが悪い。
「流石70年代のアイラは違うね」などと普段偉そうに言っている割に、「あの年代生まれのおじさんはさすがだな」とか言われるかというとそんなことはない。樽や瓶の中で眠っているだけのウイスキーは称賛されるぐらい熟成するのに、起きて毎日活動しているおじさんが熟成されていないってどういうこと?という疑問がふつふつと湧いてくる。そして気持ち悪さは「これぐらいの年齢になればこのぐらい熟成されていないといけない」という水準がどこなのか、そして自分はそれを満たしているのかどうか分からないところからやってきている気がする。
つまるところ自分は自分が思っていた人生を思い通りに歩めているのか、という刃のように鋭い質問を節目の日に改めて目の前に強く突きつけられている、ということに気が付いた。毎日考えるが目をそらし続けてきた、非常に深くて重い根本的な問題。
そんな苦い思いを自分の生まれ年に蒸留された酒を口に含んで洗い流す。80年代に瓶詰めされているため流石にコルクはもげてしまったが、ビンテージ入りのKnockandoは品の良いキャンディのように甘くて軽やかで力が抜けて明るく朗らかで、私と異なりいい歳の取り方をしていた。
その数日後、人に勧めていただいた平野啓一郎の「マチネの終わりに」を読んだ。彼は自分よりも数年若いがまあ同世代で、大学も一緒ということもあって親近感を持っていたが手に取るのは今回が初めて。彼の小説が素晴らしすぎるといったいこれまで自分は何をしてきたんだと思わされるかも、という恐怖感が無意識のうちにあったのかもしれない。
しかし読了し「もっと早く読むべきだった」と少し後悔。
そもそも自分の人生は自分の選択の結果なのか、あるいは運命なのか。
真実を言わないことの効用と正直であることの費用。
自分を偽らずに生きることでより困難な人生を自分が歩むことのコストと、それを自分ではなく自分が愛する人が払わなければならなくなったときに自分を曲げずに生きていかれるのかという問題。
人を陥れてでも、軽蔑されてでも自分の幸せをつかみに行くべきなのか、他人のことを慮る故に自分の幸せを逃すことが正しいことなのか。
生と死とが紙一重であること、そして生き残った/生き残らされたものの苦しみ、生を授かったわが子に対する絶対的な愛情。
自分の才能の枯渇や加齢による衰えの自覚と若い才能の台頭への恐怖感。
真の救済と偽りの救済、音楽による魂の救済。
これまで薄ぼんやりと考えてきたことが一つの小説の中にたくさん含まれていて、全ての問いに対する答えは必ずしも描かれていないのだけれど、繰り返し読めば答えがおのずと見つかるような気がする一冊だった。
小説には読むべき人生のタイミングというものがあるというのが持論だったのだが、まさに「マチネの終わりに」は私にとって今読むべき小説だった、と強く思う。いい本だから早く読んでおきたかった、という気持ちはもちろんあるものの、2年前に出た小説を新刊で買って読まずに今読み終わったのは何かに導かれてのことだったのかもしれない。
(個人的にはできるものなら10年前の豊川悦司と松雪泰子で撮ってもらいたかった)