復興のあとを訪ねて
宮城峡蒸留所訪問後は仙台のホテルで一泊。本来ならばいくつかバーを巡ってウイスキーを飲みたかったのだが、旨い三陸の魚を食べるとつい飲みたくなるのが日本酒。地元の酒を飲んで復興に貢献しすぎ、一度ホテルに戻った後は飲みに出ることができず撃沈。
翌朝車を借り仙台市若林区にある震災遺構、荒浜小学校跡へ。震災の時に流れた津波の第一波が名取川を逆上してくる映像を覚えているかもしれないが、まさにその場所。
10時からの公開時間より前に着いてしまったので周りを走ってみるが、見渡す限りこのような感じ。家の土台が残っているところ、お墓が新しく作られているところ、流された墓石がまとめておかれているところ。かつてはそこに人の生活が確かにあったのだと思うが、それを想像するのが難しいぐらい何もなくなっている。
この小学校の向かって右手の海岸から押し寄せた津波、2階の床上40㎝ほどまで浸水し、1階の教室前の廊下を流されてきた車が塞いでいたそうだ。
地震のあった時4年生以上の子供はまだ学校で授業を受けていて屋上に避難したとのこと。高さのない体育館に避難していたら多くが犠牲になっていた。3年生以下の子は帰宅していたそうだ。生徒が一人犠牲になられた、ということだったがもしかしたら低学年の子だったのかもしれない。うちの子供は4年生になったばかりだ。この地区では180人ほどの方が亡くなられたと伺った。
この近辺は居住が許可されないエリアとなってしまい、かさ上げした道路と空き地しかなかった。ここには本当の意味での復興というものはない。
それから閖上のさいかい市場へ。仮設店舗で営業している若草寿司さんで海鮮丼をいただく。大将一人がづけ台に立っていて料理に時間がかかるがいいかと言われたがこちらは特に急ぐ理由もない。待っている間に本マグロのかま焼きを出していただいてお客さんみんなと分けて食べたのだが旨くて驚いた。
国道45号線を走って塩釜へ。鹽竈神社に参拝、災いがないことをお願いする。途中で浦霞の造り酒屋が見えたので帰りに立ち寄る。
ちょうど2時から見学ツアーが始まるところに滑り込む。
写真右下は地震の際仕込んでいた清酒のもろみが樽からこぼれてしまった、という説明を受けているところ。海から500mほどしか離れていないこの蔵元も1m弱冠水してしまい、蔵の一部は壊れその年は清酒を作ることができなかったという。醸造酒の免許しかなかったが、被災したもろみを無駄にしないため一度限り特別に蒸留酒の製造許可をもらい米焼酎を作ったそうだ。それが震災後6年経ってもまだ残っており、梅を漬けて梅酒にしてあるというので購入して帰ることに。浦霞は「うらがすみ」ではなく「うらかすみ」と濁らず読むのが正しいそうだ。知らなかった。
塩釜から松島に入り、日本三景の一つを見て回って2日目は終了。
松島の宿で休日の割に早い朝食を摂り、国宝の瑞巌寺を見に出かけた。ここも海岸からほど近く、立派だった参道の杉も一部塩害で枯れてしまっていた。襖絵が立派に復元されていたが、博物館にある本物を見ると圧倒される。国宝の本堂と庫裏だけ見て帰る観光客がほとんどだったが、本物の襖絵を見て帰ることを強くお勧めする。
再び車で北上。震災から3か月ほど経った頃にボランティアに来たところだ。当時はJRが復旧しておらず、松島の駅から矢本までバスに乗った。野蒜の駅近くは当時こんなことになっていた。
今はヤマザキデイリーストアではなくファミリーマートが建っていて、その隣が震災伝承館となっていた。
野蒜駅にあった券売機が保存されている。
伝承館の2階で見た野蒜を襲う津波の映像が改めて恐ろしすぎた。狭い街並みをとてつもないエネルギーを持った津波が襲い家々をあっという間になぎ倒していく。奥様をなくされたおじいさんのインタビューも胸に突き刺さる。
被災した家の整理のお手伝いをした航空自衛隊松島基地近くに行ってみたが、そこも居住ができない地区になっていて集落そのものがなくなっていた。ここにも復興はなかった。
浦霞 本格焼酎につけた梅酒 720ml 専用化粧箱入り 東日本大震災時の清酒醪(もろみ)から造った本格焼酎に蔵王産青梅をつけた梅酒で「再生」への願いがこめられています |