東京ウイスキー奇譚

こだわりが強すぎて生きていきづらい40代男性の酒と趣味への逃避の記録

ウイスキーの聖地アイラ島訪問の詳細は以下のリンクから。
訪問記 アイラ島 初日 2日目 3日目
蒸留所写真  Ardbeg1 Ardbeg2 Laphroaig1 Laphroaig2 Bowmore
アイラ島写真 
アイラ島への旅行についてのアドバイス エディンバラ2日目  グラスゴー

  

復興のあとを訪ねて その2

東松島から再び国道45号線を北上川沿いに走る。川幅が広く透明感の高い緑が広がり、ゴールデンウイークというのに車もまばらで人造物もあまりなく、日本離れした光景。心に波風が立っても、自然を見ると癒される。

国道には至る所に「ここから津波の際の浸水箇所」という看板が立っている。それも海抜25mと書かれているようなところでも。リアス式海岸なので津波の高さが増幅されやすいとはいえ、こんな山の中でと何度も驚かされる。

三陸に近づくと国道が寸断されているところが出てきて、被害の大きさを無言のうちに物語る。しばらく走ると視界が開け、盛り土に覆われた「町」のようなもの、が出現。というのも街の中心部だったところには道と盛り土しか基本ないのだ。街に当然あるはずの店もほとんどなければ人家もない。

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そんな中、20m近い高さと思しき盛り土の上にさんさん商店街があった。さすがゴールデンウイーク、駐車場に入る車で大渋滞。言い方は悪いが、街には土地がたくさん余っているのに駐車場に車が入れなくて渋滞しているというのはとても皮肉だ。
何とか車を止めたのが12時過ぎ。1時から南三陸観光協会の語り部プログラムで震災の話を伺う予定になっており、早く何かを食べないと、と気が焦るがどこも混みあっている。強風の中、フードコートで家人たちが所望したうに丼を食べ終わるともう1時10分前で慌てて車で南三陸ポータルセンターへ。

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観光協会で受付を済ませ、お話をお伺いするSさんとおっしゃる60過ぎぐらいの男性の方とご挨拶。まずは観光協会の隣にある展示室で事実関係のおさらいをし、それから道を150m程度歩いて200段ほどの階段を上がって志津川中学校から街の全景を見ながらお話を伺う、というのが語り部プログラムの流れだ。

南三陸町と書かれたブルゾンを着た役所の方が、防災庁舎の屋上のアンテナの周りで手をつないで屋上に避難してきた人たちを津波から守ろうとする写真を見せていただいたが、2人はSさんの幼馴染、守られているうちの1人も知り合いのおじいさん。3人とももう写真でしかお見掛けすることはできないそうだ。

ご家族やご自宅には被害がなかったのか、というようなこともこちらからお伺いするのはとても気が引けるので、中々質問ができずSさんのお話をひたすら伺う。Sさんはどのようなお仕事をされているのだろう、もしかすると教育関係の方かもしれない。感情を表に出さずに理知的に淡々とお話をされるが、地元に対する強い愛情は言葉の端々から感じ取れた。

ポータルセンターのすぐ近くが町の消防庁舎だったという。更地なので言われないと気づかないがよく見ると花束が。後程Sさんのお兄さんもこちらでお亡くなりになられたと伺った。非番だったそうだが、地震後すぐに庁舎に駆けつけて詰めておられたときに2階までしかない消防署が津波に襲われたそうだ。「非番の日だったからどこか他の町にでも出かけていればねえ」、感情をあまり出さずにそうお話になったが無念さはひしひしと伝わってくる。

国道を渡り、200段以上ある階段を上り始める。階段の横の手すりが新しくなっていて、そこまで水が上がってきたとのこと。Sさんは地震の際には気仙沼で仕事をしていて、通勤用の自分の車が津波でやられてしまい歩いて南三陸の自宅まで帰ろうとしたが途中で知り合いに車に乗せてもらうことができ、自宅に帰って家族の安否が確かめられるかと思っていたら津波で道路が寸断されてなかなか自宅に辿り着けず、家に帰れたのが真夜中過ぎだったとのこと。f:id:KodomoGinko:20170510115752j:plain
自宅は海抜10m程度のところにあったので多分大丈夫かと思ったそうだが、そこにいらっしゃった義理のお父様が亡くなられたとおっしゃっていた。奥様も南三陸の市街地の公的施設で働いていてそこも完全に津波に飲み込まれてしまったので諦めかかったそうだが、地震の後すぐに避難するよう強く勧めた上司の方のおかげで命拾いされたそうだ。

6年前の今頃に東京に帰ろうと矢本の駅で松島行のバスを待っていたら、地元のおじさんが突然缶コーヒーを奢ってくれた。「毎日葬式ばっかりで、花ばかり買っている」、と嘆いていたのを思い出す。

Sさんは地震の後気仙沼の職場がなくなってしまい、南三陸町仮設住宅の人たちに声掛けして回る役場からの仕事をされたという。なぜ仮設住宅で一人暮らしをしているのか、とはなかなか聞けなかったとのこと。どんな辛い経緯があるのかわからないからだ。目の前には志津川中学校の校庭の端に立つ仮設住宅が見える。

仮設住宅に入るときに集落のコミュニティがなくなって知らない人たちとの生活で気苦労が絶えなかったこと、この夏で仮設住宅から出ていかなければならないが、せっかくできたコミュニティがまた壊れてしまうかもしれないこと、仮設住宅から出られるのはうれしいが家賃を払う必要がある公営住宅に行くのは経済的に厳しいため仮設に残りたいと思う人たちもいること、など復興の影の部分のお話をたくさん聞いた。

この前も総理大臣と復興担当大臣がさんさん商店街に来たけれど、復興しているところしか見て帰らず、本当の姿は見ていない、また例の「東北でよかった」というのは本当にその通りで、まだ古いコミュニティの助け合いの精神が残っている東北でよかったんだ、ということもおっしゃっていた。

f:id:KodomoGinko:20170510115658j:plain上の写真は階段の上の志津川中学校前から撮った。震災前の写真を地元の写真屋さんがフェンスに貼ったそうだ。田んぼと海に挟まれた街がそこにあったが、今は町の中心には家は建てられない。

防災庁舎は残してほしくないという遺族も多くいたという。見世物にしてほしくない、という声も多かったそうだ。特に観光客が防災庁舎をバックにピースサインで写真を撮ったりする光景が耐えられなかったという。だが住民投票で6割ほどの人が賛成をし、県が20年震災遺構として保存することになった。そのために錆止め塗装を新たに施したためより見世物っぽくなったと感じる人もいたという。保存のためには錆びて朽ち果てさせるわけにもいかず、なかなか難しいのだが。 

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今は使われていない国道越しに、静かに両手を合わせてこうべを垂れた。

瓦礫という言葉も一部の人の心を傷つけるという。瓦礫というとゴミ、という響きに聞こえるが、あれは我々の生活の痕跡であってゴミではない、ということだそうだ。

そう聞くと、何も聞かず何も言わない方がいいのかもしれない、とつい思ってしまう。だがそうすると全てが風化していってしまう。しかし根掘り葉掘り無神経に質問することで、人の心を傷つけたり精神的に大きな負担を強いることは本意ではない。そういう葛藤がある中でボランティアの方からお話を聞かせていただける語り部プログラムというのは非常に貴重だ。実はボランティアの方に精神的な負担をかけてしまっていて、彼らの義務感や使命感にフリーライドしているだけかもしれない、とも思うのだが。

予定の時間をオーバーしてSさんはたくさんのお話をしてくださった。丁寧にお礼を述べる。その後歌津の港も見て、仮設の商店街に立ち寄ってから仙台に戻った。結局結構な量の宮城産の酒を買い込んで東京へ。今回の旅で地震の記憶がない娘が命の尊さを含め何かを感じとってくれたのであればよいのだが。

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