東京ウイスキー奇譚

こだわりが強すぎて生きていきづらい40代男性の酒と趣味への逃避の記録

ウイスキーの聖地アイラ島訪問の詳細は以下のリンクから。
訪問記 アイラ島 初日 2日目 3日目
蒸留所写真  Ardbeg1 Ardbeg2 Laphroaig1 Laphroaig2 Bowmore
アイラ島写真 
アイラ島への旅行についてのアドバイス エディンバラ2日目  グラスゴー

  

SNS/ウェブ情報をうのみにすべきでないとSNS/ウェブ上で主張するという大ブーメランについて

突然音楽の、それも昔話から始めますがお許しください。


今は音楽をお金払ってダウンロードする前に、YouTubeで曲を聴いてみて、あるいはダウンロードサイトで試聴して買うか買わないか決めることができる。
だからお金を払って聴いてから「ハズレだった~」って分かることは基本ない。それも1曲ずつ好きか嫌いか確認して買うことができる。

だが昔は、音楽、特に洋楽は試聴してから買う、ということはほぼできなかった。正確に言うとシングルカットされているアルバムの中の1曲はFMラジオなどで金払わずに耳にすることはできたが、オンディマンドではなく特定のラジオ番組の時間にラジオの前に正座して曲がかかるのを待たなければいけなかったし、それ以外のアルバム収録曲は試聴できないままに3000円を払ってCDもしくはLPでアルバム全曲を買わされる、というのが普通だった(信じられないかもしれないがそのためにラジオ番組でどの曲が掛かるか知るための番組表雑誌、みたいなものまであり、それを読んでいるとシャレオツ、とされていた)。当然昔はインターネットもなければYouTubeもない。
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田舎の中学生だった私の1カ月の小遣いは3000円だったのでアルバム1枚買うのは清水の舞台から助走をつけて飛び降りるぐらいの相当な決意を必要とした。当時はレンタルレコード屋もしくはレンタルCD屋があって一泊二日350円とかでアルバム借りられたけれど、私は当時から結構マニアックだったのでレンタル屋に自分が聴いてみたいアルバムがないことがままあり、自分で1か月分の小遣いをすべてはたいてアルバム買うしかチョイスがない時が多かった。

だからレコード/CDを買ってきて最初に針を落とす/CDプレイヤーを再生するときは相当ドキドキし、大枚はたいて買ったアルバムがしょうもなかった時の凹みっぷりは半端なかった。ハズレをつかまないために音楽雑誌のアルバム評を食い入るように読み、ストレートにネガティブなコメントを雑誌に書けない時もあったりしょうもないアルバムをしがらみにより絶賛しなければならないようなオトナの事情があることも高い授業料を払って学び、行間を読む技を身に付けることができるようになった。

からしてみれば笑ってしまうようなことだと思う。試聴せずに金払うなんてありえねー。今の感覚ではそうだろう。今時そんなリスク取ってまで買わなければならない嗜好品、ってあまりない。そもそも自分が好きだから消費するのが嗜好品なのに。買ってみないと自分がそれが好きかどうかわからない、ってもはや嗜好品の定義からも外れてしまっている。

 

だけどテクノロジーの進化した今日この頃でも高い金払った後に「ハズレだったらどうしよう」とドキドキさせられる嗜好品がまだある。はい、もうお気づきでしょうが、そのうちの一つはウイスキーってやつです。ペリペリするときドキドキしませんか?*1f:id:KodomoGinko:20200130103620j:image

店頭もしくはバーで試飲せずに買うと、最近ボトルの値段も上がっているのでドキドキ感めちゃ強い。輸入元のコメントを鵜呑みにしてしまうと、最近だと「トロピカル詐欺」、ちょっと前までは「シェリー感詐欺」に引っかかる。だからだれかがバーで試して、あるいはチャレンジャー*2がボトル買ってツィッターでどんなコメントしているのか眺めてから買うか買わないか判断する、ってなりますよね、普通。
特に可処分所得が限られると、失敗した時のリスクが大きいのでよりそうなるはず。大人の私よりも中学生の頃の私の方がよりシビアにアルバム選んでたことは間違いない。だからおじさんよりも若い人の方がウェブ上の情報を真剣に見ているはずだと思う。

少し話題を変える。一般的に日本人の間では、知り合いの意見に対しては表だって違う意見を述べない、という無意識のうちの同調圧力がある*3

人口密度が高く農耕というチームプレイで生きてきた日本人の多くは、狭くて濃厚な人間関係の中でトラブル起こすと生きていかれなかったはずなので、「和をもって貴しとなす」、つまり人の意見に表立って反対しないような傾向を進化の過程で身につけるのは自然なことで、現代社会に生きるマトモな大人は空気を読む能力を身につけて当たり前。

日本人は一般的にDisagreeとDislikeの距離が近いイメージ。外国人は自分の意見と違うこと言う人がいても議論の後に仲良くランチ食べたりするのが普通だが、日本人の一部(特に私以上の世代)は「自分と意見の違う人=自分の人格を否定する人」、と受け止めるので人間関係が気まずくなってしまう。結果、自分がよっぽど強く主張したいことでなければ他人に対して反対意見を(強く)述べない、というのが無意識のうちに「大人しぐさ」になっている。サラリーマン社会にいる人、毎日実感してますよね?

そしてウェブでやSNSで情報収集する皆さんがあまり意識しない事実だが、実はブロガーやツイッタラーは意外とつながっていることが多い(SNSはつながるためのものなので当たり前だけど)。仮に同調圧力が働くとするとどうなるか、というと「あの人があのボトル褒めてるのに自分はあまり好きじゃないとは書きにくい」「あの人がネガティブなコメントしているのに自分は好きとは言いにくい」的なバイアスがかかる。書いている人の顔が思い浮かぶようだと特に。

念のためだが実際にそれが起きているか否かとか、それがいいとか悪いとか、馴れ合うべきかそうでないべきかなどを議論したいわけではなく、日本における人付き合い*4って普通そういうものだ。先ほども述べたように、マトモで立派な大人であればあるほど同調圧力センサーが働くようになっている。

ウイスキーの好き嫌いの主張のために友達失うかもしれないリスクとりますか?普通はとりません。

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そもそも全員が試飲してからボトルを買うことができないという事実と若いウイスキー好きが増えているという事実によりウイスキーの評価におけるウェブやSNSの影響力が強くなり、それと同時にウェブやSNSでボトルを評価する人が仮に同調圧力にさらされているとすると、結果何が起きるか考えてみよう。

おそらく、ボトルリリース直後に書かれたテイスティングブログやツイッターでの評判の多様性が薄くなる上にそれにみんなより強く依存するようになる。ウェブやSNSで誰か声の大きな人の一人が発売直後に「これは旨い!」というとみんなそれに乗っかって人気化するし、「これはダメだ!」というと売れないという状況が少しずつ出来上がる、はず。嗜好品だから本来は色んな意見が飛び交って当たり前なのだけど。

もしそうなってしまうと、いくつかの点で良くない状況が発生してしまうのではないかと個人的に懸念している。

一つ目はいろんな個性のウイスキーが楽しめる、という多様性が失われていくという点。
みんなは「これよくありがちな凡庸なウイスキーだ」と言っているけれど、私は実はこういう風なニュアンスを取ることができて意外と悪くないと思いました、みたいな様々な意見を持つ人が増えれば多種多様な商品が受け入れられる環境になる。
逆にみんながみんな「トロピカルな甘い香りのするこの手のボトルサイコー!」みたいな似たような意見しか言わないと似たような商品しか出てこなくなる、ような気がする。
そしていわゆる「尖った」ボトルが出てこなくなるリスクが高まる。そうなると自分が経験できる感覚のスペクトラムの幅が狭いままになってしまう。
例えば海外の人が「ミーティ」という硫黄系の香りや後味をあまり嫌がらずに評価するが、日本人は(私も含め)あまり好まない。だけどミーティ、という表現はどういうときに使われるか、どの程度までだったら海外の人も受け入れるのかを知っておきたい、と思う。多様性が失われるとそういうことを学ぶ機会が徐々に失われていくことを心配する。

二つ目は蒸留所のハウススタイル、ビンテージ、樽使い、熟成年数、色などの客観的要素から試飲をしなくてもある程度信頼性のある官能評価、主観的評価を予想し導き出すことのできる能力を飲み手が磨く機会が失われる、という点。
もう少し具体的に言うと、「これだけ色濃いしこの蒸留所の酒質が軽めなこと考えるとシェリーの樽感がくどすぎる可能性が強いからパスしとこうかな」とか「このビンテージは当たり年だったし前に飲んで美味かったカスクナンバーに近いから試飲しなくても買って大丈夫なはず」とか想像していいボトルを見分ける「野生の勘」のようなものを持たない人が増えてきてしまうのではないかという懸念。

全てのボトルについての情報がウェブ上で入手可能なわけではなく、またアウェイのバーに行ったときなど事前情報なく自分の力でよさそうなボトルを見つけて飲まないといけないときもある。やはりいいボトルを自力で見極められるスキルがあった方がいい。ウェブ情報に頼ることに慣れてしまうと、カーナビなしではドライブに出かけられないドライバーのような「ウイスキー方向音痴」になってしまうのではないか、と思う。

三つ目は、ウイスキーに対するリスペクトが失われていく気がする点。
SNSやブログの評価に頼ることで「いい」ウイスキー「だけ」飲みたい、というのは時間とカネという資源を節約する行為かつ他人にフリーライドする戦略。だがそもそもウイスキー造りには時間も手間も掛けられていることを考えると、作る側にはスローフードの精神を要求しておいて消費するフリーライダー側はマクドナルドのハンバーガー食べるのと変わらないメンタリティーウイスキーをいただき、落とす金は最小限で済ませたい、という生産者に対するリスペクトを著しく欠くおかしな状況になる。

家飲み用に買って飲んでみたら自分にとっては「ハズレ」だったボトルを、ただ捨てるのはもったいないからと言う理由だけで飲む、というのは有限な時間や肝臓の無駄遣いではあるものの、そういう痛い目にあって「授業料」を払わないと先ほど書いたように自分のセンサーの感応範囲が狭くなり、野生の勘も養うことができないのだと思う。そして、残念ながら全てのウイスキーが美味いわけではないので一定量の「ハズレ」ウイスキー*5が世の中に存在するというのは変えようのない事実。誰かが授業料を払い、そのババを引かなければならないが、自分だけ授業料を払わずババも引かずにいいとこどりしてずっとウイスキーを楽しもう、というのは完全なフリーライドで自分勝手すぎる気もする。ただし「フリーライダー」の中にはそうしなければならない経済的理由がある人もいるのはわかる。みんながもっと豊かだったらハズレボトルも楽しめる余裕が出るのに、とちょっと老害的な発言の一つもしたくなる。

正直言うと私も「おいしいウイスキーしか飲みたくなくて、好きなものだけに囲まれていたい」と思う部分ももちろんある。ストレスレベルが高いときは特に。だが、「愚者は誰からも学ばないが、賢者は愚者からも学ぶ」というありがたい言葉*6がある。「ハズレ」ボトルからも学べるフレイバーやニュアンスがきっとあるはず。

音楽の例で書いたが、ボトルを評価する人が本当に独立した自分の意見を述べているとは限らない。世の中いろんな大人の事情やしがらみがある、と私は昔授業料を払って学んだ。ちゃんとした人であればあるほど、オトナのしがらみにがんじがらめになる面もある。

上記の理由から、ボトルの評価に関してSNSやブログを頼りすぎるのは正しくない気がする。ただし真面目にSNSやブログを書いている人を貶めるつもりは全くなく、あくまでも受け止める側がそれに頼りすぎないように、ということが言いたいので念のため。
当たり前ですがあなたが今読んでいるこのブログで私が今まさにこう書いていることを鵜呑みにしていただく必要は全くない、ということを暑苦しく主張しているという意味でこの記事は壮大な自己矛盾、大ブーメランだけど。


そして私がツイッターで書いている内容の一部も、悪い意味でのフリーライダーの参考になってしまっている部分ももちろんあることは自覚している。
そこは本当に申し訳なく思っております。
特に「スローフード」メンタリティーウイスキーを作っている生産者やボトラー(インポーター)、そして彼らに強く敬意を示されている(オーナー)バーテンダーの方々、日々SNSを見て店に現れる一見の「フリーライダー」に対して思うことがあるバー好きの皆様に対して。 

だから私はできるだけ多様性を意識して人の意見に流されないようにしながらSNSやブログを使っていきたいと思う。そして私のできることは、ウイスキーを生業にしている人たちに常にリスペクトと感謝を持ち、だがしがらみからもできるだけ距離を置き、できる範囲でカネを落とすことでフリーライダーを排除しないといけなくなるような世知辛さを減らしていくことだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 (かつて同調圧力Peer Pressure)について割と真剣に考えてみたことがありました)

islaywhiskey.hatenablog.com

 

islaywhiskey.hatenablog.com

 

 

*1:擬音祭

*2:人柱ともいう

*3:逆に自分が安全地帯にいるとわかると手加減せずにボコボコにする傾向もあることがSNS見ているとわかる

*4:ウェブ上のバーチャルな付き合いを含む

*5:めちゃくちゃ失礼な表現だと理解した上でこの言葉を使っています

*6:すみません、今私が作りました